2006年09月28日

ダリ回顧展

ダリ回顧展に行ってきました。

感想は、とても混んでいたということです。混んでる美術館って嫌いなんですよね。ゆっくり絵が観れないし、近くで観れないし、喋っている声がうるさいし、館内が暑いし…。晴天だったとはいえ、平日の人出ではなかったような気がします。出てくる時には入場規制されてたし。
肝心の絵の方なんですが、今まで観たことないダリの絵が観られてよかったです。特に初期の10代頃の絵は言われなければダリとは分からないような絵で、こんな時代もあったんだなぁと感じました。印象派やセザンヌの影響が感じられる絵がおいてありました。
シュルレアリスムの絵はわけがわからなかったです。そこがいいところなんですが。なぜこの絵にこのような題名をつけるのかというところがとても印象的でした。想像をかき立てられます。あのような絵は先に作品を作ってから題名をつけるのか、それとも題名が先で作品を作るのでしょうか。
わけのわからなさというのはダリの言葉にもあったけれど、人間の中に存在しているのでしょう。人間なんかわけがわからないことの塊ですね。他人はわからないし、自分のことも確かではない。ある種の確かさは持っているけれども、その確かさが本当に確かであるかなんてわからない。他人と共有して造り上げる現実は本当に存在しているのか。他人すら幻想で、そこには現実は存在していないのではないか。むしろ自分すら存在していないのではないか。統合失調症の方や離人症の方は目の前に存在していると言うのに、「私はもう存在しないのです」ということを訴えるときが時にあるそうです。そのような人たちの心の中ではどのようなことが起こっているのでしょうか。

自己との関連で言えば面白い話があります。免疫系の話。免疫には自分と病原体(自分の体と異なるもの)を区別する特別な機能があります。そのため臓器移植などを行えば免疫機能が働き、移植された臓器を異なったものと認識して攻撃します。動物で行われた実験ですが、(記憶は確かではないのですが)鳩に鶏の脳を移植した実験があります。しかしもちろん免疫反応のため鶏の脳は攻撃されてしまい、うまくいきません。では、免疫系を構成する胸腺を脳と一緒に移植したらどうなるか。免疫系は脳を異物とみなさなくなるようです。そのため鳩が鶏のように鳴くらしいです(ここで行っている話だと移植される鳩の肉体自体が攻撃されそうですが、人からの又聞きなので詳しいことは不明)。
つまり私たちは脳が自己を決定すると考えがちですが、実は自己というのは免疫系の中にも存在しているのではないかという議論があるそうです。単純に肉体の機能を統制すると考えられる脳を移植しても、肉体を統制することはできず、異物として排除される。脳は自分の肉体を自己とすることができず、他の構成物とともに存在することで肉体を自己とできる。肉体は複雑です。人間という存在はまさにすべての構成物から自己を形作っているようです。
posted by hiro at 23:32| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は今までダリはあんまり興味なかったんだけど、
オランダかどっかで見たら同じような理由で面白いなぁと思い始めたよ。
そういえばこの前磐梯の山中でダリの彫刻に出会ったよ。

同じく、混みこみの美術館は好きじゃないです。
Posted by さとこ at 2006年09月30日 22:40
>さとこ
俺もかつてはダリとかシュルレアリスムの絵が好きじゃなかったんだけど、
去年の夏辺りから現代美術とかにも目覚めたよ。
ダリの彫刻!以前どこかで(磐梯じゃない)観たけど、あのキモさとエロさが好きw
Posted by ひろただ at 2006年10月01日 10:55
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