2006年10月26日

実習体験

もう一月ほど前ですが、介護老人保健施設に実習に行ってきました。

一週間だけだったのですが、このような施設に実習として行ったのは初めてだったので色々とおもしろい体験ができました。実習といっても行う内容はボランティアの方がやるような範囲だったですが。
一番多かったのは利用者の方と交流して話を聞く時間でした。私はお年寄りの方と会話をして交流するのは基本的に祖父母以外とは経験していないので、貴重な体験でした。とても、とても当たり前のことですが、人が生きてきた歩みの中には様々な体験があります。その歩みが長いほど体験の数も多いものです。私が聞いたお年寄りの方々も本当に多くの体験をしてきて、その中を一生懸命生きてきていることを実感しました。会話がなければ単なるそこにともにいるだけのお年寄りの方ですが、会話をすればその人だけのこの世に一つしかない生を歩んできた人間が鮮やかに厳然と立ち現れてきます。その人たちは今の私の時代からすればより生命の危機に直結した暮らしを歩んできていました。私からすればその世界を生き抜いていくことも想像できないし、その人たちと同等に自分もこれからの生を歩んでいけるのかと考えてしまいました。そこにいる方は私がとても追いつけないような世界にいる先輩でした。
また認知症のある方とも交流しましたが、認知症に対するイメージが変わりました。私の周りに認知症のある人はいなく、私の中のイメージはマスコミから得られるようなイメージでしたが、決してその人たちは「様々なことがわからなくなってしまった」人たちではありませんでした。確かにわからないこと、覚えていないこと、被害的な妄想などは程度は様々でしたがありました。それでも、その部分を含めて過去と今を生きているその人らしさというものを感じ取ることができました。記憶が確かな部分も確実に存在し、そのお話をされるときには、とても生き生きとした活気のある表情をなさっていたのが印象的でした。私たちの現在でさえ無数の過去の積み重ねからできているというのに、現在に近い過去が保てなくともかつて最もその人が自分自身として生きてきた過去がある人は(過去が主観によって修飾されていたとしても)やはり現在において特別な存在なのだと思います。同時に私にとっては相変わらずの命題とも向き合いました。食事などを嫌がる人に対しての介護です。食事などがお年寄りの生命を保つのに当然ですが不可欠です。そのため職員の方々は嫌がる方に対してもなかば強引に食事をさせます。しかし、私は果たしてそこまですることに意義があるのかどうか考えてしまいます。なかば強引に歩まされる生に価値はあるのでしょうか。本人が嫌がることを無理にさせてまで生かすのはどうしてなのでしょうか。反論としては、それでは自殺を許すのか、判断力が落ちているのだから仕方がない、子供が同様に嫌がったとしても行わないことがいいことなのか、ということが今私が考えられるものです。確かに病気などによって自殺の可能性が高くなるときに私は治療によって自殺を思いとどまるようにさせるでしょうし、子供の場合ならば強引にでも行うかもしれません。矛盾していますが。

このあたりは私の死生観にかなり影響されていると思います。この問題に私は回答を出すことはできません。しかし、常々考えることとして、尊厳死という死を果たして認めることができるのかということを考えます。尊厳死には様々な原則が存在しますが、たとえどんな原則が存在したとしても私は尊厳死は自殺だと思います。不治の病であり、その苦しみが堪え難いという大原則があります。最近では延命治療の中止も多く行われています。しかし、もしその死が認められるのであれば、私はその他の自殺も認めなくてはならないのではないかとも時に考えてしまいます。一例として精神障害があります。精神障害はかなりのものが不治であり、結局は薬物で異常な状態を変化させているために状態が良くなっているというのが現状でしょう。ときにうつ病などでは様々な薬物を投与しても反応しない人もいます。肉体的な苦しみではないためになかなか理解されがたいですが、本人にとってはとても堪え難い苦しみなのだと思います。その苦しみから逃れるための自殺を、尊厳死を認めたとしても、認めないことはできるのでしょうか。
尊厳死では本人の意思が正常であり、延命治療では治療をされた後の本人の反応が聞けないことに対して、精神障害の方では薬物を投与された後に苦しみから解放されて自殺をもはや考えなくなることも考えれば、やはり薬物を無理矢理にでも投与させるべきだというかもしれません。しかし、薬物で異常な状態を正常に近くして反応を問うことはどうなのかとも考えます。精神障害は他の疾患に比べると命にあまり直接的に関わらないため、病気の定義は異常の程度によっているともいえるでしょう。どこまでの異常が病気であり、どこからの異常が個性として認められるものなのでしょうか。そこに薬物を与えて正常に近づけることは、ある意味ではこの世から個性を消し去り、平均的な人間を大量生産させようとしているとも考えられます。この点はすべての疾患にも通じるでしょう(健康という平均的な人間像)。多くの人は生存欲求を持っているので、命に関わる異常であれば正常に近づきたいと願います。そのため本来の欲求と治療者側の行為も一致します。しかし、もし薬物を拒否する性向、自分の命を終わらせてしまいたい性向を病気ではなく、個性として捉え直せるなら私たちは個性を消すために薬物を投与できるのでしょうか。生来持っていた個性を消した後に反応を問うて、本来の反応と同じであると言い切ることはできるのでしょうか。私たちはどのような理由で生きていてほしいと願うのでしょう。私たちはどのような理由で命を終えたい、終わらせてほしいと願うのでしょう。

なんだか最初の実習体験からかなり連想が行き過ぎました。最後の方は病気と個性との関連、そして生の意味、死の意味を問題としているでしょう。
誤解されると困るので明言しておきますが、私はこんなことを書いていても治療者になれば病気の人に治療薬を与えるべきで、自殺しようとする人がいれば思いとどまらせるべきだと考えています。治療は行うべきだと。根拠のない物言いですが健康な部分が治療を求めているからこそ治療者の前に現れるのだろうとも感じるからです。それでも先にあげた問題は考えていく価値があると思うので、まとまらないものではあるけれども書きました。また何か思うことがあれば書きたいと思います。
posted by hiro at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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