2006年11月06日

幼児期と社会

幼児期と社会 1 (1)


読み終えました。近頃とんとないくらい購入から読了まで時間がかかりました。1、2合わせて2ヶ月ほどかかりましたかね。
著者はかの有名なエリクソン。彼の名前を知らなくともいわゆるアイデンティティ、自分って何?という概念を打ち立てた人と言えばへぇ〜となるのではないかと思います。厳密に言うと自分って何?というのはエリクソンのアイデンティティにはあまり含まれないのではないかと思うのですが。
以下思いついたことをつらつら書きます。エリクソンによればしつけなど成長に伴って幼児に加わる社会的な制約が幼児のリビドー(性的なエネルギー)を変遷させていくらしい。フロイトは自然発生的に生物学的なものによる変化が起こるとしたけれど(例えばエディプスコンプレックスや性的発達論など参照)、エリクソンは「それに加えて」社会的な圧力がかかると。その社会はそれまでの歴史性を持っていてその歴史性に適合するように変遷させるらしい。つまり社会的な制約は歴史的なものであり、その歴史性に適合するように、社会が求める従来の成人の姿になれるようにリビドーを変遷させるらしい。陳腐な思いつきとしては日本では従来暗黙の了解ができるように人を成長させるけれど、欧米では自分の意見をはっきり述べるように成長させるなど。このあたり歴史性が先にあってリビドーを変遷させるのか、リビドーの変遷が先にあって歴史性が生まれるのかは微妙。考えれば非常に当たり前のことかもしれんけど、当時の精神分析からしたら社会の影響という考えは新しかったらしい。特にリビドーはある種の自立性を持つように考えられていたっぽいし。現在の精神分析では社会の影響をどのように捉えているのだろうか。
社会との関わりを考えている点では、中間領域という言葉が出てきたりする。社会と自我との間の領域をさすんだと記憶している(ややあいまい)。この点興味深いが、おそらくウィニコットとか対象関係論に比べると中間領域が生まれるのは、幼児にしつけなどが行われる時期なので発達的にけっこう後のように感じる。また自我心理学者っぽく理論において超自我、エス、自我が理論の中心にあり、その概念をもとにして理論を構成している。社会の影響で超自我の力が弱くなり、自我の力が強くなる、などなど。

ところでアイデンティティという概念はアメリカという国の中、エリクソンという人物だから生まれた気がする。本書に出てくるインディアンの話なんかはまさにアイデンティティの危機に当たる。インディアンのそれまでの歴史性を持ってきた文化と白人による新しく持ち込まれた文化の間にインディアンの子供、成人が存在しようとするために。両方に親和性を持つほどにどちらの社会にも拠り所を求めることができず葛藤してしまうだろう。それに対して、現在の日本もある職業に自分自身の同一性を一致できない人は多くいるが、果たして日本という移民がほとんどいなくて文化的歴史性がかなり画一的な国で本当のアイデンティティの危機は生まれるのか。おそらく在日の人やアイヌ、沖縄の人々などはかつてから現在にかけて危機を体験しているのだろうけれども。既存の職業が既存の文化によって不安定にさせられるのっていうのはどのような場合にあり得るのだろうか。それよりもそれまでに積み重なってきた基本的信頼感(おそらくこちらの方が自分が自分らしいという概念に一致する)があまりないために、その後社会に同一化することができずアイデンティティの危機、というよりそれまでなんとか乗り越えてきた基本的信頼感の危機が生まれるのではないだろうか。
そもそもエリクソンの言うアイデンティティを獲得するためには、基本的信頼感があった上で(自分らしさを認識できた上で)自分を社会の中の役割、つまり一定の職業に同一化することが求められる。そのために大学生は職業ではないとしても様々な社会的な役割に仮に同一化することが許されるとしてモラトリアム期間だとしている。その後職業を選ぶことが求められ、うまく同一化できないと危機が訪れる。それに対して現在言われるアイデンティティの危機は上記の危機に加えて、社会的な役割に同一化する以前の自分らしさ、本当の自分がわからないという危機が混同されているのではないだろうか。自分らしさがわからなければ、当然のように社会的な役割に同一化することもできないだろう。

アイデンティティの危機の他にも発達的課題とそれに対応する障害があげられているが、それらは生涯において続くらしい。もしかしたら障害が積み重なっていくものがユング派の影のような感じになるのかもしれない。影は得られていないもう一つの可能性のようなものなのでニュアンス的にはもっと幅広いだろうが。しかし、生涯において続く危機を乗り越えることが後々あったとしたら、それはやはりそれまでの自分からの変化が起こると思われる。中年の時期に影が現れるのも、生殖性の時期を過ぎ始めて統合の時期に入り始めるからではないだろうかと連想。
しかし、臨床的にエリクソンの発達段階論は使えるのだろうか。理論的にはそれなりにわかる部分も多いけれど、この理論を臨床に実際に生かすとすればどのように生かせるのだろうか。理論の中には臨床的な要素よりも文化人類学的な要素が多い感じもする。人はこのように発達していきます、危機や障害もあります。では危機や障害を乗り越えていくための方法は?という視点が臨床的には必要なのではないだろうか。

全体読むとこのアイデンティティという概念やエリクソンの理論はやはり精神分析をある程度知っていなければ消化できない気がする。ウィニコットがクラインという前提を知っていなければ消化できないように。どちらも口当たりは良さそうなために取っ付きやすさはあるけれども。
posted by hiro at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/104479795

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。