2007年02月28日

共依存ー自己喪失の病

心理系一般書かと思ってたら専門書の要素もかなり強い。

共依存?自己喪失の病


共依存あるいは共依存症という概念はDSM上にはないもので、一般的な定義もまだ確立されていないらしい。かつてはアルコール依存症者の家族とその関係性に対して使われていたが、あらゆる依存症者の家族、そしてある種の対人関係とその対人関係を持ちやすい人と拡張されてきた。私なりに理解した共依存とは、ある人との関係性であり、ある人に執着し、どんなにひどい問題を持っていてもその人を援助しよう、そして逆説的に問題を助長させるものである。共依存症とはその関係性を病理的に持ちやすい人に当てる言葉である。その中核は自分は自分であるという感覚に欠けていることで、他者を援助することに自分の意味を見いだす。
本書では前半が共依存に陥った当事者たちの手記でその回復の過程が描かれている。後半は様々な分野(教育、司法、医学、心理学など)の識者が共依存についての考察を書いている。前半の手記は貴重なものであると思う。一般的に症例を描く書物は多いがそれは治療者の視点からみたものであり、実際の当事者が自分の共依存をどのように認識し改善させていったのかを知ることは共依存の捉えがたさを理解するのに役立つ。特徴的なことは共依存症者はいわゆる病識がないということである。共依存症者は自分の行動をあまり異常視していない。むしろ自分が他者を援助していると考えているので、治療者はまずその部分に気づいてもらうようにすることが大切だろう。
そして重要なことは共依存はけっして単独に存在するのではなく、共依存を引き出す他者がいることである。多くは何かしらの依存者である(アルコール、薬物、食物、ギャンブル、DV、虐待など)。そして共依存症と依存症と共振し合うようにエスカレートしていく。そのため依存症を治療するためには周囲の共依存症を扱わなければいけないし、共依存症を治療するためには周囲の依存症を扱う必要が多いだろう。
さらに援助という視点から考えればすぐに想像がつくように、援助職者は他の職種の人よりも共依存に陥りやすい。私は共依存傾向は誰しもが多かれ少なかれ持っていると思うが、援助職は他の職種よりも共依存傾向が高い人がつくのではないだろうか。すべてのクライエントに対して共依存になることはないが、おそらくある援助職者の共依存傾向に触れるクライエントが現れれば共依存に陥ってしまう。それはいわゆる巻き込まれの一種かもしれない。しかしだからといってただ共依存恐れるのではなく、行き詰まった時に共依存になっているかもしれないという視点を持てることが重要だろう。共依存という概念はとても使いやすい。依存症者の、依存症者と同様にどこか普通でなく扱いにくい家族をうまく形容できない時に、この概念はしっくりと形容できるのだろう。このしっくりとくる感じはこの概念が実際の臨床に関わる人々から自然に生まれでて広がっていったことを納得させる。また名付けることでこれまで扱いがたく理解しにくかった人々をこのような傾向を持つ人々なのだと納得させ一般化し、対処法を考え出させるだろう。
しかし、使いやすい概念とは得てして拡張されて援用されていくものである。そしてその度にその具体的な生々しさは薄れていくのではないだろうか。共依存と形容される関係は依存と言う問題をどんどん悪い方向へ発展させるし絡まり込み入ったぐちゃぐちゃな関係であると思う。その点は本書の手記を読めば一目瞭然である。しかし、この関係を共依存と名付けることであまりにスマートにまとまりすぎている気がする。なんとなくその関係性を理解させてしまう。このなんとなくが危険であるように思う。
だからといって、共依存を使うべきではないと思うし、その有用性の高さは果てしない。ただ私が言いたいことは抽象的な共依存と概念と、実際の濃密な関係性のイメージや説明しようとする具体的な言葉を常々リンクさせ、両方を自由に行き交えるようにしておくことも重要だろうということだ。そしてこのことは、他にも様々に使われているわかりやすくすぐに使ってしまうような概念を扱う時にも重要なことではないだろうか。
posted by hiro at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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