2008年04月22日

死と愛着と

雑記です。

死について。
新聞を読んでたら、日本は癌の死亡率を20%下げるという目標を立てているそうです。
こう言われると私は違和感を感じてしまう。
癌の死亡率を下げても、その代わりに全体の死亡率は下がらない。
ある病気の死亡率を下げたって本当の死亡率は常に100%だから。
人間は必ず死んでしまうものだから。
確かに若くして、とか50、60で癌で亡くなるという人たちに対して適切な医療行為をして生存率を延ばすっていうのはとても意味のある、必要なことだと思う。
でも、個人的には80、90の人に対して癌の死亡率を下げることにどれだけの意味があるのだろうかとも思ってしまう。
先にも書きましたが、最終的に人は死んでしまうものだから。

他の記事である大学の先生が言っていたことに、かつては大往生で亡くなっていっていたケースが医療の進歩によって一命を取り留めつつ、でも体は全然不自由で懸命にリハビリするけど、結局もとにはもどらない、みたいなものを読んだ。
確かこの話はそういう人の治療もあって救急がパンクしている関連の記事だったと思うけど。
生きたいって願う人に治療をすることは大事だけど、医師にはやっぱり死を看取るということにも真剣に向き合う必要があるんじゃないだろうか。
もしくは個人個人が自分らしい死に方を考えておく必要があるんじゃないだろうか。

医学部に編入する直前に、友人に「どんな時でも人間必ず死ぬんだよ」ということを言ったら医学部に行く人のセリフじゃないと笑われた。
でも同時にむしろそういう人に診てもらいたいとも言われた。
やっぱり医師という死と密接している職業だからこそ、本質的に死に向き合う必要があると思う。
だって死を否定してしまったら、残念ながら死が運命づけられた人さえ否定してしまうじゃないですか。

個人的には80くらいまで生きられたら、あとは心筋梗塞が来ようが脳卒中が来ようが救急車も呼ばずに死にたい。
だってもしかしたら自分が呼ばなかったら他のもっと若い人が救急車で運ばれて救われるかもしれない。
自分の孫が成人する場面を見られたり、もしくは結婚する場面まで見られたりしたら(晩婚化しているから際どいけど)文句なく逝ける。
文句なく死ねるような人生をそれまでに送っておきたい。
我が人生に一片の悔いなしと叫んで死にたい。

若干暗いですけど、医師家系の性なのか実家に帰れば両親とどういう風に死にたいかという話はよくします。
だいたい結論はある程度生きてポックリ死にたいに落ち着きます。
やっぱり死がある意味で身近すぎる職業なんでしょう。


別の話題、愛着について。
以前の日記でマクロな視点で学童期の子どもたちに対して心理的な援助をしたいという話を書きました。
でも、幼児の愛着のビデオを観て考えが揺らぎました。
愛着が障害されている子どもたちの姿を観て、予後がかなり悪く、ある一定の年齢で愛着パターンは固定されるという話を聞いて学童期の援助でも遅いんじゃないかとも思ってしまい。
もちろんそのような予後の悪い子どもたちは一部で、広く援助をするなら学童期で十分に効果があるとも思いますけど。
一番効果的なのはもしかしたら妊婦さんへの心理的援助なのかもしれない。
でも最近の飛び込み出産をするような妊婦にそんな援助は不可能なのだろうな。
そしてたぶんそういう妊婦ほど赤ちゃんといい愛着関係が築けないような印象がある。

深刻な虐待が子どもに与える傷は本当に深い。
虐待をなくしたい、子どもらしくいられない子どもをなくしたい。

たぶん自分は虐待のケースを家族ぐるみで診ることはなかなかできなさそう。
両親自身も大変であることは知的に理解できるけど、怒りや憎しみを向けてしまいそうで。
家族と被虐待児の再統合にまで関わっている先生をすごいと思った。


上記のビデオで、愛着がおかしい乳幼児が不思議な奇妙な行動をしているのを観て笑っている人もいたんだけど(確かに笑えると言えば笑える奇妙さだったけれども)、笑えなかったな。
だってその乳幼児は苦痛の中で、苦痛な関係の結果として奇妙な行動をしてるんですもの。
むしろ、やりきれなかった。
posted by hiro at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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