2007年03月21日

それから

祖母が亡くなりました。

先週の土日にお通夜・葬儀とありました。いろいろと思うことはあるのですが、ここでは少しだけ。まずは参列者が多かったことが嬉しかったです。お年寄りの女性の葬儀となると仕事をもってないこともあり参列者が少ないそうですが、かなり多くの参列者に来て頂き祖父母の人徳を感じました。
近親者が亡くなるという遺族にとっての喪失体験の大きさも感じました。孫、子どもにとっても大きいですが、やはり祖父が一番辛そうで。あと葬儀の忙しさなどは直接喪失体験を味わうことを少し遠ざける役割があるのだろうと再確認しました。
あとは葬儀に接したとあって、解剖実習で勉強させて頂いたことに関して感謝の念を強く持ちました。葬儀に出すことや入棺も行えないことがご遺族の方々にとってどれほど心苦しいことかがいまさらながら実感できました。今までは言葉の上での感謝しか持っていなかったと思いますし、逆にもっと何かできたのではないかという後悔の念も起きてきます。
これ以上書いても支離滅裂になるのでこの辺で止めておきます。

また先週の土日はかつて所属したサークルの追いコン、通称卒パがありまして。参加する気満々でしたが、上記のため欠席させてもらいました。それでも料理を作ってみんなに食してもらったことは嬉しい限りです。料理に凝り出してから卒パでみんなに自分の料理を味わってもらうのは夢でしたからw 主催者の卒業生のみんなお疲れさまでした。最後の最後で参加はできなかったけれども、同じ学年だったみんなともう一度何かを作り上げようとしたことは自分にとってとても幸せな時間でした。自分がこの学年の一員であり、みんなと協力して今までやってこれたことを再確認しみんなに対して、ありがとうとがんばったねとお疲れさまというごちゃまぜになった言葉をかけたいです。他大にいってしまいこの一年みんなとあまり会えなかったにも関わらず、最後にサークルの最終学年として主催者側に回れたことは最高の思い出です。暖かく迎えてくれてありがとうw
posted by hiro at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コミュニケーション不全症候群

タイトルから想像される内容とはちょっと違う。

コミュニケーション不全症候群


著者はコミュニケーション不全症候群とは他者に対する想像力が欠如し、自分の知り合い以外を人間とみなせず、そのような他者と関わっているという考えがないような人々とする。そしてその異常の原因として過密化し競争原理が行き渡った現代社会をあげている。さらにコミュニケーション不全症候群の顕著な例としてオタク、ダイエットに執着する人々、いわゆるヤオイものに熱中する人々をあげ、根底にあるのは先の異常であると例証しようとする。
根底にあるコミュニケーション不全症候群という考えには賛成できる。私を含めてかもしれないが、確かに最近の人々はあまり見知らぬ他人のことに関して我関せずという状態だろう。おそらくこれは昔の社会からあったものだろうが(小さい集落ではお互い顔見知りであり他の集落の人に対しては冷たかっただろう)、都市に人々が過密化したために顔見知りの人が少なくなり暖かく接せられる人の数が少なくなったのだろう。また最近の格差社会ではないが、自分の生活にゆとりがなければ他者に対してゆとりを持って相対することはできないという側面もあるだろう。15年以上前に書かれた作品であるが、この点は現代でも変わっていない、むしろ悪化しているとも言えるだろう。
しかし、各論となると異論もでてくる。おそらく時代性もあるのだろうが、宮崎事件や女子高生コンクリ詰め殺人事件、摂食障害にコミュニケーション不全症候群の表れを求めすぎている。そこから派生しオタクやダイエットに執着する人々、ヤオイものに熱中する人々を論じるが、あまり共通性があるようには思われない。各論それぞれをとりあげれば賛成できる点もあるが、無理にコミュニケーション不全症候群にまとめあげようとしているように感じられる。またそれを時代への過剰適応としていることも飛躍しすぎているように思える。そのために各論においては言いたいことがあまり筋道だってはわからない。先の事件があまりに衝撃的だったことはわかるが、それよりももっといわゆる普通の生活をしながらコミュニケーション不全症候群に陥っている人を扱った方がよかっただろう。
また現代社会に病因を求めている故に、ところどころ統合失調症や自閉症までも現代社会にうまくついていけなかったためだとしているのは言い過ぎだろう。ある種の精神障害が社会への適応過程で発症するのはわかるけれども、病因の素因としては本人のなかに求められるのが反精神医学後の流れである。
コンクリ詰め殺人事件の主犯格であった男子高校生の「自分のガールフレンド以外は人間に思えなかった」という発言を何度か取り上げているが、最近の突発的に起こる殺人事件やいじめには似たようなものを感じる。「殺人を経験してみたかった」という理由もあったし、いじめる子どもはいじめられている子どもをあまり人間とは思っていない(人間的な感情があると思えない)だろうし、虐待も躾とは言いつつやはり想像力の欠如があると感じられる。各論にはついていけないにせよ、他者への想像力の欠如といったコミュニケーション不全症候群といったものはかなり多くの人に当てはまるだろうし、どうにかしなければいけない問題だろう。著者は社会はなかなか変えられないし、時間と自分を見つめる勇気によって解決できるだろうと書いているが、もっと社会的にどうにかしなければいけないレベルにもはやなっていると思う。
posted by hiro at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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