2007年02月19日

モモと沈黙

二冊一緒に。

モモ


児童文学の名作の一つに必ず名前が挙げられるだろう本書。時間とは何かという哲学的ともいえる命題を児童文学の中で見事に扱っている。その命題をめぐって冒険物語のように、探偵物語のように、果てはほのかなロマンスのように描き出す。命題自身が永遠の問いといえると同時に、物語の巧みさによっていつの時代でも古さを感じさせない。
時間を奪われてしまった人たちとその時間を取り戻すモモという女の子の話ですが、いつ読んでも時間を奪われてしまっているのは私たち自身のように感じられる。バイキング形式のレストランのレジで話し込もうとすると後ろから飛んでくる怒声、せかせか道を歩き他の人に興味を示さない人々、時間を節約しようとお客さんとのコミュニケーションを全く取らない店主。全て話の登場人物ですが、すぐとなりにいる実在の人物のように感じられてくる。しかし、このような人たちは心がぎすぎすしていて、いつもイライラ、不愉快な感じがしていて、すぐに怒りだしてしまうような人として描かれる。まるで通勤ラッシュの中にすぐにでも見つけられそうな人。勝ち組負け組、格差社会という薄っぺらい言葉が飛び交う社会にすぐにでも見つけられそうな人。
本書の中で時間とは生活であり、生活とは心の中にあると書かれている。まさにその通りで、同じ一時間でも生活の仕方、心の持ちようで早くも遅くもなる。けれども、時計の時間にだけ追われてしまうとそのことを忘れてしまう。私たちは時間を考えるよりも生活を、そして心の中を考えた方がよいのだろう。モモが時間を取り戻すことができたのは時計の時間ではなく、人とともに過ごすまたとない一瞬の時間を大切にしていたから。この世界に生きる私たちもその時間を大切にしたいと思わせる一冊。

沈黙


遠藤周作を読むのはこれが初めてだったけれども、引き込まれるように読み終えた一冊。時代は江戸、キリシタンたちの反乱である島原の乱の直後、日本に潜入した司祭の話。司祭は潜入後、隠れながら潜んでいたキリシタンたちに教えを授けるけれども、幕府側に捕まってしまう。捕まった後にキリシタンたちに加えられる拷問を眼前に出され、信仰の厚い人々を神はなぜに見殺しにして沈黙し続けるのかを問う。
史実をもとに遠藤周作は司祭の内面をえぐり出そうとする。潜入する前に燃える使命感、教えを授けながら感じる喜びや満足感そして一抹の不安。捕縛後に浮かび上がる神への疑念、振り払うような信仰心と義務感、訪れる絶望。司祭は自分の苦難をキリストの苦難と重ね合わせつつ、キリストはどのような表情でどのような心情で十字架にのぼったのかと想像し続ける。
時代も異なり、国籍も異なり、宗教も異なるけれども、司祭ロドリゴの感情は理解できるものである。今現在の世も戦争は絶えず、貧困もなくならず、苦しみ喘ぐ人は大勢いる。同時に豊かな生活を謳歌している人々もいる。現実はなかなか変わらないが、なぜ変わらないのか。人々に善意があるならば変わるのではないか、もし神が存在するのなら変わるのではないか。自分たちの力で変えようと努力をしている人はたくさんいるだろうが、それでもこのような疑問を感じる瞬間はあるだろう。そしておそらくこのような疑問を差し挟む人はただ単純に世界がよくなるよう信仰をしている人よりも本当の意味で救いを見いだそうとしているのだろう。ロドリゴも作中後半で迫害のない地でただ信仰し布教しようとする人々を批判している。
ロドリゴが自分をキリストに重ね合わせる描写やキリストを想う描写はやや自分やキリストを美化しすぎているように感じられるが、それも最後にかけて神と対話するのに効果的となっている。このような点はキリスト教信者ではないためになかなか感情移入できないが、神に疑問を差し挟む心情などは逆にキリスト教信者でない人の方が理解しやすいのではないか。
ひさびさに重い小説を読んだ気がするが、読了した後の満足感も違い、今後も重いテーマの小説を読みたくなってしまう。
posted by hiro at 02:12| Comment(3) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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