2006年09月28日

ダリ回顧展

ダリ回顧展に行ってきました。

感想は、とても混んでいたということです。混んでる美術館って嫌いなんですよね。ゆっくり絵が観れないし、近くで観れないし、喋っている声がうるさいし、館内が暑いし…。晴天だったとはいえ、平日の人出ではなかったような気がします。出てくる時には入場規制されてたし。
肝心の絵の方なんですが、今まで観たことないダリの絵が観られてよかったです。特に初期の10代頃の絵は言われなければダリとは分からないような絵で、こんな時代もあったんだなぁと感じました。印象派やセザンヌの影響が感じられる絵がおいてありました。
シュルレアリスムの絵はわけがわからなかったです。そこがいいところなんですが。なぜこの絵にこのような題名をつけるのかというところがとても印象的でした。想像をかき立てられます。あのような絵は先に作品を作ってから題名をつけるのか、それとも題名が先で作品を作るのでしょうか。
わけのわからなさというのはダリの言葉にもあったけれど、人間の中に存在しているのでしょう。人間なんかわけがわからないことの塊ですね。他人はわからないし、自分のことも確かではない。ある種の確かさは持っているけれども、その確かさが本当に確かであるかなんてわからない。他人と共有して造り上げる現実は本当に存在しているのか。他人すら幻想で、そこには現実は存在していないのではないか。むしろ自分すら存在していないのではないか。統合失調症の方や離人症の方は目の前に存在していると言うのに、「私はもう存在しないのです」ということを訴えるときが時にあるそうです。そのような人たちの心の中ではどのようなことが起こっているのでしょうか。

自己との関連で言えば面白い話があります。免疫系の話。免疫には自分と病原体(自分の体と異なるもの)を区別する特別な機能があります。そのため臓器移植などを行えば免疫機能が働き、移植された臓器を異なったものと認識して攻撃します。動物で行われた実験ですが、(記憶は確かではないのですが)鳩に鶏の脳を移植した実験があります。しかしもちろん免疫反応のため鶏の脳は攻撃されてしまい、うまくいきません。では、免疫系を構成する胸腺を脳と一緒に移植したらどうなるか。免疫系は脳を異物とみなさなくなるようです。そのため鳩が鶏のように鳴くらしいです(ここで行っている話だと移植される鳩の肉体自体が攻撃されそうですが、人からの又聞きなので詳しいことは不明)。
つまり私たちは脳が自己を決定すると考えがちですが、実は自己というのは免疫系の中にも存在しているのではないかという議論があるそうです。単純に肉体の機能を統制すると考えられる脳を移植しても、肉体を統制することはできず、異物として排除される。脳は自分の肉体を自己とすることができず、他の構成物とともに存在することで肉体を自己とできる。肉体は複雑です。人間という存在はまさにすべての構成物から自己を形作っているようです。
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家守綺譚

家守綺譚


梨木香歩の新刊が文庫で出ていたので、上野に行く道すがらに読みました。
おもしろかったです。今までの梨木香歩の作風とはちょっと異なった感じで。梨木香歩といえば、女の子の思春期心性をとても上手に、まるで未だにその心を自分の中に持ち得ているのかと思うほど鮮明に特有の不安定さ、残酷さ、やさしさ、愛情の目覚めなどを描写する小説家だと思っていましたが、このような小説も書けるのかと驚きでした。でも、すんなり作中世界に入れるし、読みやすいです。
簡単にあらすじを書くと、早世してしまった友人の実家をふとしたことから管理することになった主人公が接する日常の不可思議な生活を送る話です。早世してしまった友人がさらっと出てきたり、犬や狸、鬼が出てきます。
この作品は日本語が美しいと思います。日本の庭の風景描写も。庭に生えている草花を描く場面がよく出てきますが、日本の情緒深さを感じさせます。どこかの首相ではないですが、このような作品を読むと日本は美しい国だったのだなぁと感じます。
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2006年09月26日

ベルギー王立美術館展

ベルギー王立美術館展に行ってきました。

今週は大学がカリキュラムの関係で休みなのです(ちなみに大学は9月から始まっています)。電車の広告で見て気になってたので行ってきました。なかなか面白い企画展でした。中心は17世紀から19世紀前半の絵かな。その分写実的な絵画や宗教・神話的な絵画が多かったです。シュルレアリスムの絵もあったけれど数は少なく。
個人的にはもっと現代的な絵が多い方が楽しめたかな。写実的な風景画や人物画も好きだけれど、インパクトが若干足りないと思います。過去の文化や風習を研究するにはとてもよいのだろうけれど、もの想いに耽るには写実的すぎる。その点で現代的な絵が好きです。しかし、写実的な絵を観ていて思ったのだけれど、あのような絵はその現実を残すために描かれたのでしょう。人は必ず忘れてしまう生き物だから。多少記憶に残せても、本当にその時その瞬間の体験は残せない。写実的な絵が描かれたのはそのような瞬間を永遠にとどめておきたいという人間の欲望からではないでしょうか。特にその時代は貴族が絵描きを囲って自分の肖像画などを残しておく時代だから、権力者は自分の影響力や自分の存在を残しておきたいという欲望が強いのでしょう。秦の始皇帝が不老不死の薬をどうしても手に入れたかったというのは有名な話。しかし、なぜ権力者はそうまでして生きたいと願うのでしょうか。権力にはそれだけの魅力があるのかな。
ところで、企画展とは別に国立西洋美術館の常設展も観てきました。はっきり言ってボリュームがあり過ぎです。しかも集められている絵画・彫刻も良いものが多い。あれで一般420円は魅力的でしょう。時間がある時にふらっと寄るのにちょうどいいかもしれない。
ベルギー王立美術館展のほかに常設展も観るのなら時間に余裕を持って観に行くことを勧めます。私は3時間と少しかかりました。しかも最後は閉館時間のアナウンスに促され早足で。

今週はあとダリ回顧展に行く予定です。最近美術館に行き過ぎですかね。けれど、最近どうも一人でいるとどうやって時間を使うのかが難しいのです。だから美術館に行くという。以前よりも一人でいる時間の使い方が下手になった気がします。
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オーラソーマリーディング

やってみました。

一本目 魂のボトル(あなたの本質を示します)

イエローは個人の意志、ブルーは天の意思をあらわします。個人のエゴを超越し、大いなる存在とつながっていく可能性を示唆しているこのボトルを選んだあなたは、平和と安定の心を携えています。強い信念と高い志を持ち、高次なレベルで周囲とコミュニケーションしていきます。深遠なる思想で周囲に影響を与えるでしょう。自分の進むべき道、真理、光の存在に気づいています。高い知性と感性で、自分を表現していくでしょう。
ボトルNo 094
ボトル名 大天使ミカエル
カラー ペールブルー/ペールイエロー


二本目 チャレンジ&ギフトのボトル(あなたの過去と乗り越えるべき課題を示します)

過去の習慣にしがみついています。いつも、準備ができていないと感じているようです。そのため、障害や問題など、不意に予期せぬ何かが起きたとき、すっかり混乱してパニックに陥ることがあります。自分にも、世界にも過大な期待をしがちです。高い理想を掲げすぎて、常に達成できないと思っています。自分が本来持つ魂の色を隠しています。自分が何のために生まれてきたか、何を為しうるのかを見つけていく必要があるでしょう。
ボトルNo 054
ボトル名 セラピスベイ
カラー クリア/クリア


三本目 「今ここ」のボトル(現在の状態と気づきを示します)

新しい視点から物事を捉えようとする気持ちが芽生えています。360℃の気づきが訪れるでしょう。小高い丘に登るように、ぐるりと自分を見回してください。あるがままの自分を受け入れることで、客観性を持った正しい認識が生まれるはずです。また、自然と戯れるのも良いでしょう。大自然に身を置くことで、自分の存在が自然の一片であることに気づき、それが新たな発見につながるはず。大いなる存在に身を委ねることで、視野が広がっていくでしょう。
ボトルNo 010
ボトル名 ゴー・ハグ・ア・ツリー(行って木を抱きしめなさい)
カラー グリーン/グリーン


四本目 未来のボトル現在の状態からどう変わっていくか、未来の可能性を示します)

直観力と集中力に優れています。温かさや優しさに溢れ、困った人を積極的に助けることができる人。見返りを求めない、無条件の愛情を指し示すことができるあなたは、真の意味で強く、パワフルな精神力の持ち主。周囲の人たちとの人間関係も、ますます豊かに充実していくでしょう。あるがままを受け入れ、自分を愛することができるあなたは、人を受け入れ、愛する力に満ちています。母性的なエネルギーで周りを愛で満たすことができるでしょう。
ボトルNo 081
ボトル名 アンコンディショナル・ラブ(無条件の愛)
カラー ピンク/ピンク


当たってるような当たってないような…。
そんな高次なレベルでコミュニケーションをとっているなんて気恥ずかしい。深遠なる思想って何?w
自分が何のために生まれてきたか、何を為しうるのかを見つけていないというのは当たってそう。
360℃の気づきが手に入れられると嬉しいですけどね。大自然に身を委ねるのかぁ。
私はそんなアンコンディショナル・ラブなんて素晴らしいものを身に付けることができるんですかね。
周りの人はこの結果を見てどう感じるんですかね?
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A2Z

A2Z


久しぶりに読み返してみました。
最初に読んだのは大学1年のときかな。その時読んだ感想は大人も恋愛に関してはあんまり変わらないものだなぁということと私もこんな風に恋愛のドキドキを感じて友達とばかみたいに騒ぎたいなぁということ。
今回読み返してみたけど、あんまり感想に変化はなし。つまり自分自身成長してないw。それでも以前よりも登場人物の感情の変化や言葉の意味などに敏感になった気がする。その点は近付いているのかな。

読んでいて思うのだけれど、山田詠美はすごいね。恋愛小説なら江國香織も私は好きです。ただね、江國香織の小説はもっと客観的な感じがする。もっと遠めから静かに感情の変化や起伏が描かれていて、だからこそ乱暴で激しく危険な恋愛小説という印象。それに対して山田詠美はもっと登場人物に密着して描いていてこころの描き方が直接的。そこにはスリルも混じっているけれども、それ以上に恋愛における楽しみを慈しんでいるような感じがする。人生も恋愛も捨てたものではないという希望的な観測を抱かせてくれる。
江國香織は日常に潜む恋愛の危険な罠を静かに描く。だからこそ、江國香織は人を信じること、恋愛をすることは蛮勇だろうと書き、それでも恋愛に対して躊躇わない人々を描き出す。山田詠美は、今公開している映画ではないけど、恋愛を(シュガー&)スパイスに捉えているんじゃなかろうか。スパイスなんて入れなくったって構わない、でも入れればそれだけで香しい香りや複雑で魅惑的な味を引き出してくれる。だから、恋愛は人生におけるスパイス。なくても楽しんでいける、でも含めた方がもっと複雑でおいしい人生を味わえる。
特にこの小説はその感覚を強く有しているように思う。編集者の夫婦がお互いに恋人を作って、夫・妻と恋人の間で揺れ動く。別にそんな恋人なんていなくったって夫婦でそのままやっていけそうな二人なのだけれど、恋人と過ごす時間はそれまでの足りないものを埋めるような魅力を持っている。その楽しみは永遠に続く保証などなく、慈しむべきもの。最後まで読むと本当にスパイスのよう。
最近どうもとてつもなく日常がつまらないのだけれど、それは恋も愛もしてないからかもしれません。


ところで小説中に出てくる下の文章にとても共感してしまった。きっと私も職人気質なのでしょう。
「心の中の作業所factory。私には、それがある。恋にうつつを抜かそうが、悲しみにうちひしがれようが、そこは、私に明かりを灯されるのを待っている。そして、ひとたび外の空気を吹き込んでやれば、すべてのパーツが作動する。あまりにも原始的な空間。だからこそ、誰も立ち寄らない。誰も立ち寄れない。そこでくり返される手作業は、職人の孤独を呼び寄せる。私は、そこで生かされている。そんなふうに思う。そういう場所を隠し持っていることが、幸福なのか不幸なのかは解らないけれども。」
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2006年09月24日

治療と管理

この週末はボラの合宿に行ってきました。

ボラは知的障害者の方と関わるもので、今回は知的障害者の方と関わらないボラだけの研修という合宿でした。そこでは児童精神科医の方から自閉症についての講義を聞きました。基本的に知っていることばかりだったのですが、久しぶりにTEACCHプログラムのビデオを見ました。
TEACCHとかを見て毎回考えてしまうのは治療と管理の違いです(実際問題全ての治療は管理とつながっていると思いますが)。自閉症の子はコミュニケーションを言葉ですることが難しいので、他の方法でコミュニケーションを取ることができるようになり作業もできて将来社会参加することができるようになるように。とても素晴らしいことです。しかし、ここにはどんな人間も社会参加して働くことが当然という人間観があると思うのです。健康な人と同じように、別の形ででも社会参加できるようにすること。管理的な要素がどうしても潜んでいるような気がします。
TEACCHプログラムも日本で広まっていますが、アメリカ(ノースカロライナ州)でTEACCHが始まったのにはプラグマティズムとプロテスタンティズムがもともとあるのが大きいような気がします。実利的であり、なおかつ働かざるもの食うべからず。日本は比較すると社会で生かそうとするよりも家族で抱えるというような文化がもともとあるような気がします。家族で抱えればあまり管理は関係ないでしょう。家族だから認められるということがあるような気がします。ただ家族の負担がとてつもなく重くなることと家族がいなくなってしまった時に本人が生きていけるのかという問題がありますが。日本もだんだん家族から社会への比重が重くなってきたと思います(介護保険しかり)。ただ社会で生きるということは他の構成員に迷惑をかけないようにするということで、やはり管理的な要素が存在するようになってきてしまいます(極端な話、教育自体がある種の管理・洗脳です)。
結局社会で私達自身が生きている以上、管理という視点は排除することができないものですが、自分が行っていることに管理的要素が潜んでいることに気付いていること、なぜ自分はそのような管理的行動を行っているのかということを考えていくことがおそらく重要なのだと思います。正解の答えなんかでないしね。自分自身だけの答え、真実を持つことが大切。

児童精神科医の先生とは他にも精神療法のことや心理士のことについて語り合いました。フランクなとてもいい先生で、今度先生の診療に陪席させて頂けることになりました。臨床は実践知なので直接観察ができることはとても役立つでしょう。楽しみです。
posted by hiro at 18:13| Comment(9) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

精神療法家の名誉

ラスカー賞。ノーベル賞に近いアメリカの医学賞。

今回アーロン・ベックを含めた5人が受賞するらしい(ノーベル賞に近いのは基礎医学部門だがベックが受賞したのは臨床医学部門)。アーロン・ベックといえば認知療法の創始者である。認知療法はおそらくうつ病に対する精神療法としては現在世界中で最も行われているものではないだろうか。
驚くべきことは精神療法なんていう無形の技を創始した人がこのような賞を取ったということだ。認知療法はかなり構造化されていてマニュアルチックになっているとはいえ、外科の手術などと違って目に見えて変化を起こすような技術ではない。精神科医で何らかの賞を取れるのならば、それこそ薬物療法での貢献しかないんじゃないかと思っていた。そんな中でベックが賞を取ったということは精神療法を志す身としてはとてもうれしい。そのような無形の技を有名な賞が評価してくれたということは励みになる。
ちなみにフロイトはノーベル賞が欲しかったらしいが、取ったのは文学賞のゲーテ賞というのは有名だ。

最近は勉強をあまりせずにギターばかり弾いてます。車輪の唄を弾き語るのに夢中です。
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2006年09月16日

No.1とOnly 1

以前、研究会で話題になった話。

治療関係と面接?他者と出会うということ

最初は成田先生の著書からの最近の青年の自己愛についての話だったのだけど、そこからなぜSMAPの世界に一つだけの花が流行ったのかということになった。話題の中心となったのは曲中で歌われるonly1に人々が共感したのは健全な自己愛によるものか、もしくは不健全な自己愛によるものかということだった。
健全な自己愛は自分の限界に気付いて万能感を排した上で等身大の自分を認められるもので、不健全な自己愛は万能間を排することなく何でもできるかのように自分を認知しているもの(厳密にいえばもっと異なるだろうが)。
つまり、No.1になれないけれどもそれでも自分は自分でありonly1で価値があると人々は捉えていたのか、No.1とか何だろうが関係なくただただ自分が存在しているというonly1それだけで価値があると捉えていたのかというどちらなのだろうか、ということだ。

何となく私は上記でいえば不健全な自己愛のもと、only1が流行ったように思う。人はNo.1になろうとすることを放棄してonly1を重視し過ぎているのではないか。別に私はNo.1がいいといっているわけではない。しかしNo.1になろうとすることは自分と他者との間に存在する優劣に着目することになり、そこから他者と自分との間の違いを認識することにつながる。その違いが絶対的なものでなくなることがないと悟ったその果てに万能感を排した、他者と異なっている本当に価値あるonly1な自分が立ち現れるのではないか。(もちろんNo.1になろうとすることなく、他者との違いを認めて自分を確立することはよいことだ。)
それに対して流行ったonly1は他者と比べることなく自分を価値ある存在だと考えているように思える。比較することは時に悪のように捉えられるが、他者との間に横たわる違いを認識することなく自分を確立することができるだろうか。他者が全く存在しないような世界で自分というものはあり得るのだろうか。only1という言葉は他者と比べることなく勝手に自分が個性的だと考える自己満足的なあり方を助長しているような気がする。そしておそらく他者との違いを認めないあり方は他者をかけがえのないonly1な存在として尊重することにはならないだろう。
ちなみにSMAPの歌詞は「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」だけれども、「NO.1になれなくてもいい もともと特別なOnly one」だったら、あの歌は流行ったのかな。
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3連休の始めは寝て終わった

ええ、一日中寝てました。二日酔いで。

昨日はガンガンに飲んできました。ビール、日本酒、焼酎、赤ワイン、白ワイン、梅酒。さすがに気持ちが悪くなりました。
誰も気付いてないですが、若干記憶が飛んでいます。誰も気付いてないですが、若干リバりました。
大丈夫じゃないくせに大丈夫なふりをするのが上手いのは相変わらず。
私は結局昔から何一つ変わってないようです。
posted by hiro at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月13日

いつの間にかに秋

今日は寒かったですね。こころも寒いです。

考えなきゃいけないことが多いです。覚えなきゃいけないことが多いです。悩まなきゃいけないことが多いです。勉強も人生も。
誰かの涙を数えるたびにやさしくなりたいと願っていたけれど、なかなかうまくいかないことばかりです。
誰かを傷つけないように生きていきたいと願っていたけれど、なかなかうまくいかないことばかりです。
ただ、間違った旅路かもしれないけれど、正しさを願って歩いていきたいです。
そして世界を愛せるようになりたいです。
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2006年09月10日

ピカソとモディリアーニの時代

bunkamuraの展覧会に行ってきました。
ピカソとモディリアーニの時代

20世紀初頭からのパリでの美術の変遷をピカソとモディリアーニを中心として展示。確かに20世紀初頭、それまでの印象派のような風景画や人物画から絵画は変わる。代表的なのはピカソとジョルジュ・ブラックによるキュビスムでしょう。その先駆となるのはセザンヌだけど。
今回の展示の中では、ピカソよりはブラックの絵の方が印象的だった。ピカソの絵はあまりキュビスム的絵ではなかったと思う。モディリアーニはやはり「母と子」が最も好きだった。柔らかい線で細長い人物像を描いていて、暖かみややさしさを感じた。あとはウジェーヌ・ネストール・ド・ケルマデックという画家の絵が気に入った。鮮やかでとても色彩的な絵だった。
さて、なぜ20世紀の初頭から絵画がかなり変遷したのかということを考えると、2つの要因があるのではないかと思う。1つは写真の登場。先日行ったポーラ美術館のピカソ展では、写真の登場により風景を描くことの意味が変わってしまい、単純に忠実に描くことは意味がない、という趣旨のピカソの言葉があった。もう1つは世界大戦の影響。あれほどの大戦があまり年月をおかずに2回も起こったということが人に与える影響は甚だしい。単純に描くことよりも、不安や苦悩、歓喜といった人間の中における本質を如何に捉えるかが画家にとって重要になってきたのではないか。だから最近は20世紀の画家というのは一種の思想家ではないかと思う。人間や世界をどのように捉えているのかを絵によって表現しているのではないかと思う。
そのため、最近は印象派よりも近代美術や現代美術の方が好きかもしれない。印象派の絵は観ていると落ち着きや安心を得られるが、近代美術は観ていると言葉に表せない様々な感情が巻き起こってくる。その言葉に表せない感情を言葉に表さないままに味わい、その後に言葉に可能な限り変換していくことがとても刺激的だ。

興味がある人は行ってみるといいと思います。bunkamuraのミュージアムは質のいい絵を毎回集めてくるし、展示の仕方もどこかオシャレ。人がそこまで多くないところも好きです。
posted by hiro at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

気付かれないように

先月出たaikoのnew album。彼女
彼女









いい曲がそろっていて、聴きごたえがありますがbestは2曲目の気付かれないようにだと思う。


別れた後の男と女。久しぶりに逢うけれど、思い出が溢れようとしてしまう。愛しい気持ちだった頃、喧嘩したこと、切なくて泣いたこと、2人楽しく笑いあったこと。。。おそらくお互い顔を見たいけど久しぶりで恥ずかしいのと、見てしまうと本当に過去に引き戻されてしまうからお互いそっぽ向いて歩いてる。過去は大切な思い出。でも戻ることはできない。けれども声を聞くだけで感情的になって泣きそうになってしまう。泣きそうな自分に自分で気付かないように、あなたに気付かれないように。
聞きたいことは過去のことではなく、あなたのそれから。いつの間にかに輝いていたあなたの指輪。私の知らない彼女がいる。距離が離れてしまったことを確認してしまって戸惑ってしまう。けど、あなたに逢って話をして、彼女じゃないけれどそれでも充分じゃないと自分に言い聞かせる。手を強く握って勇気を出して、あなたに何も思わせないように笑顔を作って聞く。照れながらストレートに答えるあなたは私が見ていたあなたで。そんなあなたに自分で気付かないように、あなたに気付かれないように。
思い出される別れの後悔。でもちゃんと受け止めてきたはず。自分もこれからを生きていけると思う。もうすでに前を歩いているあなたのように。

切ない。お互い顔を見れずによそを向きながら話しかけるくだり、がんばって笑顔を作って彼女のことを聞くくだり、すごく好きだよと言うあなたは私が恋をしていたあなたというくだり、その仕草は全く変わってないくだり、気付かれないようにするくだり。女の人の切なさ、苦しさ、後悔、いじらしさ、過去の思い出が強く感じられて、こちらまで同じような気持ちになってしまう。別れて大切な思い出を目の前に出されてもこれからを生きようとするところが、本当の別れを感じさせる。

メロディもいい。本当にいい曲。必聴。
関係ないけど、最近のaikoはかつての恋をし始めた頃の切なさ苦しさや、恋をしている最中のYear!Happy!!みたいな詩よりも、別れ際の後悔心残り、別れた後に感じるまだ好きな気持ちを扱った詩が多くなった気がする。

曲を聞いて泣きそうになるけど 何故だか解らない
posted by hiro at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

Full moon

更新再開一発目がこんな記事はどうかと思うが、ある意味私らしいのでよろし。

実は最近、心身共に絶不調です。原因。不眠。寝れなければ疲れが溜まる、心も澱む。
元々寝付きはとても悪い方なんですが、ここ一週間くらいほとんど寝れてないんですよ。早めにベッドに入るのに寝れず、寝れてもとびとびで熟睡感なし。以前だったら別にそこまで困らなかったかもしれないですが、先日から医学部の「あの」実習が始まってしまい、体力が要求されているのです。基本的に頭脳よりも体力が要求される実習なので。
だいたい不眠の原因は検討ついてるんですが、手を付ける暇も思いもなく。ただしっかり寝たという感覚はどうしても欲しいので、民間療法でも迷信でもいいから寝付きが良くなる方法が知りたいんですよね。誰かアドバイス下さいw 当方切実。変に病気とかなりたくないんで。

久しぶりに過去の日記を読み返してみた。瑞々しい文章書いてるな、自分。同一人物とは思えない。楽しみにしていた人がいるのもちょっと納得。今もあんな文章書けるだろうか。。。書けそうだなw

満月を見ると無性に誰かに教えたくなるのは自分だけですか?
posted by hiro at 23:27| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

更新再開

かなり放置してました。

色々な出来事、考えること、やらなきゃいけないことがあり、更新はしていませんでした。しかし、結局近頃ひとつの考えにいたり、更新を再開することにしました。友人たちに更新しないのかと質問されたり、楽しみにしていたのにと言われたり、読みたいと言われたのも契機ですが。

以前書けずに考えていたことは、果たしてどこまで書いていいのか、どこから書いていけないのか、どこまで自分を表現すべきかということでした。他人に迷惑をかけたり、不愉快な気分をさせていたり、不必要な部分までを見せているのではないかと考えました。
しかし、私にとって書くということは私なりのささやかな自己表現手段であり、それをしないことには自分の精神衛生上とてもよろしくないということ、そして書けることと書けないことを判断し、私的な体験を一般的な体験に還元しようとする行為は考える訓練になることと考えました。今さらのことかもしれませんが。

そのような理由で更新を再開したいと思います。更新頻度はできるだけ多くしたいです。おそらく日常的生活はあまり書かなくなると思います。
そんなわけで今後ともよろしくお願いします。

それと近いうちにHPを閉鎖してblogのみにしたいと思っていますので、ブックマークなどをしている方は変更をお願いします。ちなみにlinkを新しくしようかと思うので、以前linkしていた人でまたlinkしていいよという方は連絡を下さい。
posted by hiro at 22:40| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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